芭蕉の里黒羽の14日間の足跡
こんにちわ!
訪問ありがとうございます!
黒羽での回り方をよく計画して場所を確認して回らないと ここでもたついてしまいますよ!(実際僕は探すのに何回も足を運びました)
今回は黒羽での芭蕉の 足跡を簡単に見てみましょう!
黒羽14日間の資料
1689年5月21日~6月2日の出来事!
奥の細道では・・・本文と現代文 曾良随行日記
元禄2年(1689)松尾芭蕉は曾良と共に奥の細道の全旅程の中で、最も長い14日間、黒羽に滞在しました。
奥の細道では・・黒羽と雲巌寺2つに分けて紹介されています。
参禅の師とした雲巌寺の仏頂和尚への思慕と、門人である城代家老浄法寺図書(桃雪)その弟鹿子畑豊明(翠桃)との友情の中に歌仙を催し、郊外に遊び風雅の足跡を多く残した。
そんな黒羽とはどんな所でしょう?
那須野が原の東南端に位置する旧黒羽町(現在大田原市の一部)の地は、東部一帯に八溝山地の山々が広く分布し、面積の約70%を山林が占める山裾の町であるが、西端を南北に流れる那珂川沿いには広々とした平野部に水田も見られる。
山があり、清流が流れ、季節の花が咲きそろうこの山紫水明の地・黒羽で、芭蕉は門弟らの人情の機微に触れながら14日間にわたって逗留した。
芭蕉の足跡
曾良の「奥の細道随行日記」沿って見てみましょう!
4月3日(陽暦5月21日)翠桃宅に宿る。
この日午前8時玉生をたって 日光街道を進み、大田原を経て黒羽の余瀬に着き、鹿子畑翠桃宅に泊まった。(現在は水田と化し、墓地のみが残っている)
途中草刈る農夫の馬を借りた、小娘の名をかさねと聞いて曾良は、
「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」と 詠んだ。
鹿子畑翠桃とは?(かのこはたすいとう)
芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を訪ねた。翠桃は、黒羽の館代浄坊寺桃雪の弟。
鹿子畑翠桃の私の記事
西教寺の記事
4月4日(5月22日)浄法寺桃雪方に招かれ、厚くもてなされ泊まった。
桃雪は秋鴉(しゅうあ)とも号した、翁は秋鴉の書院から「奇峯乱山かたちをあらそい一髪寸碧絵にかきたる」ような眺望をたたえ
「山も庭も うごきいるるや 夏座敷」と 詠む。一族をあげて歓待したのでずい分居心地がよかったのだろうか、黒羽で十三泊、あしかけ十四日の長逗留であった。中でも桃雪亭に八泊した。
黒羽城址公園の記事
4月5日(5月23日) 雲巌寺へ
名刹雲巌寺に参禅の師とする仏頂和尚の山居の跡があると聞いて 曾良をはじめ桃雪兄弟等 何人か連れて詣でた
「キツツキも 庵は破らず 夏木立」の 句を読み雲巌寺の清遊をおえて 桃雪方に戻った。
臨済宗 東山雲厳寺 筑前の聖徳寺・紀州の興福寺・越前の永平寺と並んで禅宗の日本四大道場の一つ
雲巌寺の記事
4月6日~8日(5月24~26日)雨
雨の為浄法寺方で休養をした。「田や麦や 中にも夏の ほととぎす」7日吟とみられる。
4月9日(5月27日)余瀬光明寺へ
昼過ぎ余瀬の修験光明寺に招かれ、閑談して夜8時過ぎに浄法寺方に帰った。
光明寺には行者堂があって、役行者が履いたと伝えられる一本歯の高足駄を安置してあった。(今は何の跡形も無い)
「夏山に 足駄を拝む かどでかな」・・・芭蕉
「汗の香に 衣ふるわん 行者堂」・・・・曾良
行者堂のあった修験光明寺はすでに廃寺となり、いまでは右の句碑と説明板が木立のなか建つのみです
光明寺の記事
4月10日 雨やみ1日中浄法寺方で休養
4月11日 小雨 余瀬翠桃方に帰った。
4月12日(5月30日) 晴れ 篠原へ
この日は雨がやんだので、桃雪は 翁を誘い、同好者と共に蜂巣の犬追物跡を 尋ね、玉藻の古墳を訪れた。
当時の篠原は文字通りの野原で、人家は一軒もなかった。
玉藻稲荷の伝説
玉藻稲荷神社は、伝説「九尾の狐」を伝える神社としても有名です。昔、狐の化身でありながらもその麗美な姿のため、帝にたいへん寵愛された玉藻の前という美女がいました。しかし、帝が病気の折の祈祷でその正体をあらわにした九尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉に身をかえ桜の木の陰に隠れていたのですが、池(鏡が池)に映った真の姿を見つけられ討たれてしまったということです。長々とすいません!
玉藻稲荷の記事
4月13日(5月31日) 晴れ 金丸八幡宮へ
津久井氏に誘われ金丸八幡宮に参拝した
金丸八幡宮
仁徳天皇の御代下野国国家鎮護とし本地に金瓊を埋め塚を築き祠を乙祠のが始めで征夷大将軍坂上田村麿東夷征討の時、この地に応神天皇を勧請し金丸八幡宮と号し奉った。
金丸八幡宮の記事
4月14日(6月1日) 終日雨 桃雪余瀬へ
桃雪は手料理の重箱を携えて 余瀬の翠桃宅にきて 一日を過ごして歌仙の興行があった。
「秣負う 人を枝折の 夏野かな」発句は翁のこの句です!
4月15日(6月2日) 晴れ 桃雪方へ
昨日の歌仙の時 訪問する約束をしたので出向いて泊まった、これは黒羽を立つ話をした為と思われる。
そして 黒羽を後にしますが 最後に出てこない場所がありました。
常念寺
明王寺
奥の細道 記念碑
4月16日(6月3日) 晴れ 高久の角左衛門へ
桃雪は 翁と一緒に余瀬まできて、高久の庄屋角左衛門方へ馬で送らせ野間で馬を返し、かつ紹介状を遣わした、途中馬子の男がしきりに一句を所望したため、翁は馬上から「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」の 即吟を与えた。
高久より那須湯本にゆき それより芦野の柳を尋ねて白河の関に行った。
貴方も奥の細道を訪ねてみませんか?
奥の細道記事一覧 那須の黒羽へ(僕の巡った記事)
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黒羽での回り方をよく計画して場所を確認して回らないと ここでもたついてしまいますよ!(実際僕は探すのに何回も足を運びました)
今回は黒羽での芭蕉の 足跡を簡単に見てみましょう!
黒羽14日間の資料
1689年5月21日~6月2日の出来事!
奥の細道では・・・本文と現代文 曾良随行日記
元禄2年(1689)松尾芭蕉は曾良と共に奥の細道の全旅程の中で、最も長い14日間、黒羽に滞在しました。
奥の細道では・・黒羽と雲巌寺2つに分けて紹介されています。
参禅の師とした雲巌寺の仏頂和尚への思慕と、門人である城代家老浄法寺図書(桃雪)その弟鹿子畑豊明(翠桃)との友情の中に歌仙を催し、郊外に遊び風雅の足跡を多く残した。
そんな黒羽とはどんな所でしょう?
那須野が原の東南端に位置する旧黒羽町(現在大田原市の一部)の地は、東部一帯に八溝山地の山々が広く分布し、面積の約70%を山林が占める山裾の町であるが、西端を南北に流れる那珂川沿いには広々とした平野部に水田も見られる。
山があり、清流が流れ、季節の花が咲きそろうこの山紫水明の地・黒羽で、芭蕉は門弟らの人情の機微に触れながら14日間にわたって逗留した。
芭蕉の足跡
曾良の「奥の細道随行日記」沿って見てみましょう!
4月3日(陽暦5月21日)翠桃宅に宿る。
この日午前8時玉生をたって 日光街道を進み、大田原を経て黒羽の余瀬に着き、鹿子畑翠桃宅に泊まった。(現在は水田と化し、墓地のみが残っている)
途中草刈る農夫の馬を借りた、小娘の名をかさねと聞いて曾良は、
「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」と 詠んだ。
鹿子畑翠桃とは?(かのこはたすいとう)
芭蕉は余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃(豊明28歳)を訪ねた。翠桃は、黒羽の館代浄坊寺桃雪の弟。
鹿子畑翠桃の私の記事
西教寺の記事
4月4日(5月22日)浄法寺桃雪方に招かれ、厚くもてなされ泊まった。
桃雪は秋鴉(しゅうあ)とも号した、翁は秋鴉の書院から「奇峯乱山かたちをあらそい一髪寸碧絵にかきたる」ような眺望をたたえ
「山も庭も うごきいるるや 夏座敷」と 詠む。一族をあげて歓待したのでずい分居心地がよかったのだろうか、黒羽で十三泊、あしかけ十四日の長逗留であった。中でも桃雪亭に八泊した。
黒羽城址公園の記事
4月5日(5月23日) 雲巌寺へ
名刹雲巌寺に参禅の師とする仏頂和尚の山居の跡があると聞いて 曾良をはじめ桃雪兄弟等 何人か連れて詣でた
「キツツキも 庵は破らず 夏木立」の 句を読み雲巌寺の清遊をおえて 桃雪方に戻った。
臨済宗 東山雲厳寺 筑前の聖徳寺・紀州の興福寺・越前の永平寺と並んで禅宗の日本四大道場の一つ
雲巌寺の記事
4月6日~8日(5月24~26日)雨
雨の為浄法寺方で休養をした。「田や麦や 中にも夏の ほととぎす」7日吟とみられる。
4月9日(5月27日)余瀬光明寺へ
昼過ぎ余瀬の修験光明寺に招かれ、閑談して夜8時過ぎに浄法寺方に帰った。
光明寺には行者堂があって、役行者が履いたと伝えられる一本歯の高足駄を安置してあった。(今は何の跡形も無い)
「夏山に 足駄を拝む かどでかな」・・・芭蕉
「汗の香に 衣ふるわん 行者堂」・・・・曾良
行者堂のあった修験光明寺はすでに廃寺となり、いまでは右の句碑と説明板が木立のなか建つのみです
光明寺の記事
4月10日 雨やみ1日中浄法寺方で休養
4月11日 小雨 余瀬翠桃方に帰った。
4月12日(5月30日) 晴れ 篠原へ
この日は雨がやんだので、桃雪は 翁を誘い、同好者と共に蜂巣の犬追物跡を 尋ね、玉藻の古墳を訪れた。
当時の篠原は文字通りの野原で、人家は一軒もなかった。
玉藻稲荷の伝説
玉藻稲荷神社は、伝説「九尾の狐」を伝える神社としても有名です。昔、狐の化身でありながらもその麗美な姿のため、帝にたいへん寵愛された玉藻の前という美女がいました。しかし、帝が病気の折の祈祷でその正体をあらわにした九尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉に身をかえ桜の木の陰に隠れていたのですが、池(鏡が池)に映った真の姿を見つけられ討たれてしまったということです。長々とすいません!
玉藻稲荷の記事
4月13日(5月31日) 晴れ 金丸八幡宮へ
津久井氏に誘われ金丸八幡宮に参拝した
金丸八幡宮
仁徳天皇の御代下野国国家鎮護とし本地に金瓊を埋め塚を築き祠を乙祠のが始めで征夷大将軍坂上田村麿東夷征討の時、この地に応神天皇を勧請し金丸八幡宮と号し奉った。
金丸八幡宮の記事
4月14日(6月1日) 終日雨 桃雪余瀬へ
桃雪は手料理の重箱を携えて 余瀬の翠桃宅にきて 一日を過ごして歌仙の興行があった。
「秣負う 人を枝折の 夏野かな」発句は翁のこの句です!
4月15日(6月2日) 晴れ 桃雪方へ
昨日の歌仙の時 訪問する約束をしたので出向いて泊まった、これは黒羽を立つ話をした為と思われる。
そして 黒羽を後にしますが 最後に出てこない場所がありました。
常念寺
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奥の細道 記念碑
4月16日(6月3日) 晴れ 高久の角左衛門へ
桃雪は 翁と一緒に余瀬まできて、高久の庄屋角左衛門方へ馬で送らせ野間で馬を返し、かつ紹介状を遣わした、途中馬子の男がしきりに一句を所望したため、翁は馬上から「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」の 即吟を与えた。
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