国峰城跡  甘楽町

こんにちは!
訪問 ありがとうございます。
今回は 国峰城跡の 紹介です。
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この 看板のところで 車を置いて登ることとなりました。
この城は、山城部、丘城部、平城部が南北2.5Km、東西2Kmの間に展開している。
山城部は標高434mの城山(じょうやま)山頂を本郭とし、他に数個を郭を構える。
丘城部は三段の区画からなり、居館があった。
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この道は 車では上がれない!狭いし 材木が転がっている。
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これより本格的に 登山の様相を表してきました。
国峰城は武蔵児玉党の一派、小幡氏の居城で、小幡氏は西上野の主領として勢力を伸ばし、東は多胡緑野(現在の多野郡)、西は西牧南牧、南は神流川を越えて武蔵の国境、北は碓氷川を境とし、磯部付近の地域すべてを領し、国峰城の御殿から見渡す限りがその支配下だったと云われる。
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関東管領山内上杉氏の重臣として活躍するが、山内上杉氏が越後に逃れた後は、武田信玄に通じるが、箕輪城主の長野業政は小幡重定を追放し、一族の小幡景定を城主とした。
永禄四年(1561)信玄は国峰城を奪い、重定を再び城主とし、上野攻略の拠点とした。
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以後信実(重定改)は赤備えの騎馬軍団を率い、活躍した。
天正三年(1575)の長篠の戦いでは信真(信実改)は中央隊として奮戦し、壊滅。その勇猛ぶりにあやかった徳川家の井伊直政がこれを井伊の赤備えとして採用した話しは有名。
武田氏滅亡後は、織田氏、北条氏に属し、天正十八年(1590)の小田原征伐の際は信定(信真改)は小田原に出陣、篭城した。
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拡大できますが 読めるでしょうか??
国峰城は子の信秀が守るが、前田利家を総大将とする北国勢に攻められ落城、廃された。
前田利家さん 強いんですね!ことごとくこの辺りの城を小田原征伐の時廃城にしています。
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冬とは言えど 周りの景色は枝が邪魔で見えにくいです!
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ここには社がありました(ちゃんとお参りしました。)
帰りの下山中に景色に良さそうな場所で撮りました。
それでは 車で行ける 場所を示します。




頼りはマップコードのみ 247468368*66
車を置けるスペースは十分あります。
途中はかなり悪路です、脱輪などしないように十分注意して行って下さい。(一回では曲がれないカーブもありました)
暖かくなってきたので 城山登りは冬までお休みになります!(虫が出てくるし木の葉で見えなくなります)
それでは皆さんいってらっしゃい!

旅の参考に!

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