松山城登城

こんにちは!
訪問いただきありがとうございます。今回は僕と一緒に松山城に登って行きましょう。
松山城本丸は標高132mの山頂にあるんですね。
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リフトを降りたからと云って本丸に着くわけではありません。
ここから長い坂道を登って行きます。
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松山城の築城に着手したのは、西国大名であった加藤嘉明公ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に藩主となった蒲生忠知公が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。
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そして、1635年に松平定行公が藩主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。
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この間、天守は1642年に五重から三重に改修され、更に1784年の落雷で焼失した後、1854年に再建されました。
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水軍の将であった加藤嘉明公は、朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を拠点としており、その経験から松山城築城に際しても、「登り石垣」をふもとの二之丸と標高132mの本丸間の防備として用いたものと考えられています。
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松山城の「登り石垣」は、南側の部分はほぼ完璧な形で残っていますが、残念ながら北側は一部分しか残っていません。
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古図には完全な形で描かれていることから、幕末以降に何らかの理由で、取り壊わされたものと思われます。
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松山城の石垣は、倭城の経験がある加藤嘉明公により、ほとんどのものが築かれており、特に本丸の高さ14mを超える屏風折の石垣などは壮大なもので、軍事目的を超えた芸術性をも楽しむことができます。
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なお、天守のある本壇の石垣は親藩松平氏によって再建されたと言われており、一段と美しい仕上がりとなっています。
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石垣が描く扇状の曲線美と、その上にそびえる壮麗な城郭、これも松山城の魅力の一つです。
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石垣をよく観察していると、さまざまな模様の刻印を見かけることがあります。この理由は、いろいろな説がありますが、一般的には、石工組頭のサインと言われています。
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これは、複数のグループが石積み作業に携わっていることから、責任を明確にするため、石材のグループ分けや石工達の作業範囲の区切りのために付けられたというものです。
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茶屋があるのでやっと本丸にたどり着きました。
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残念ながら桜は咲いていませんでした。
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天守閣がやっと見えてきました。
次の記事で入って行きたいと思います。
youtube動画
松山城 - 地域情報動画サイト 街ログ  松山城 Matsuyama Castle  松山城・ロープウェイ
皆さんも松山城訪ねてみませんか?

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