雪中行軍遭難記念碑
こんにちは!
訪問ありがとうございます。今回は青森市の雪中行軍遭難記念碑です!
画像は拡大できます!
実は昨日作りかけたが飛んでしまった・・・?
明治35年、第八師団第五連隊(青森屯営:津川連隊長)第二大隊(大隊長:山口鋠少佐)は、雪国における軍事演習として、雪中露営、雪中戦闘、雪中山路行軍などの研究をしていた。
有事に際し本街道が封鎖された場合において、南部地方と連絡をとる方法として、田代経由の連絡網の確保も重要な課題のひとつであったことから、青森から三本木(現十和田市)に向けて十三里(約52km)の雪中行軍も実験したいと考えていた。
1月18日、神成文吉大尉の率いる一中隊が田代道の燧山(田茂木野の東南約一里)付近までの往復五里(20km)を6時間(往路4時間、復路2時間)かけて日帰りの予行行軍を成功させた。
その報告を受けて、山口大隊長は1月23~24日にかけて田代に一泊して戻る行軍を命令した。ロシアが八戸に上陸したのを三本木にて迎え打つという想定であった。
1月23日の午前6時に210名(将校10名・特務曹長4名・見習士官2名・下士卒160名・第三年度長期下士候補生34名)が第五連隊前に集合し、歩兵一中隊(中隊長:神成大尉、小隊長:伊藤中尉、大橋中尉、水野中尉、鈴木少尉、以下160名)と、特別小隊(小隊長:中野中尉、以下34名)に編制され、40名の踏雪隊を先頭に雪中行軍に出発した。
出発時には天候も穏やかで、田茂木野にて小休止をした後、燧山にて食事。行進を再開したところで天候が急変し、橇(そり)を引いていくことが困難になったため、載せてあった薪や炊事具を背負い、橇を放棄。風雪の中、行進を続行したが日没になり、そこが森林だったので露営。
露営地においても火がなかなか起こせなくて、ようやく炊事できたのは24日の午前2時だった。
24日午前4時に露営地を出発し青森に向かったが、吹雪と寒気のため進めず2里ほど青森に戻ったところで道を失う。日没になっても行進を続けたが吹雪と寒気(24日の天気は青森測候所の記録によれば、西北の強風、雪、最高気温氷点下8度、最低気温氷点下12度)のため露営。大隊長は、寒気に当った身を火で暖めては凍傷を起こすと憂い、火を焚くのを禁止し、足踏みして暖を取り、一同は眠らずに夜を明かした。この夜凍死した兵士があった。
25日午前2時に露営地を出発したが、吹雪で進まず午前10時に露営地に戻る。正午に再び露営地を出発したところ、放棄してあった橇を発見し、青森へ向かっていることを確認して日没後も行進したが、暗夜で道を失って東南(三本木方向)に向かってしまい疲労のため露営。
26日の朝、昏睡状態から目覚めた後藤房之介(宮城県)伍長は、昨夜自分と共に寝た者が一人もいないのに気づく。天気も晴れたので背丈ほどの雪の中を泳ぐようにして青森に向かう途中、神成大尉、鈴木少尉、及川伍長と出会う。飢え、寒気、疲労が重なり足が進まない。夜になったのでその場で露営。
27日未明、鈴木少尉とはぐれ、及川伍長が凍傷で倒れた。神成大尉とも別れて雪中を泳ぎ進むうち、捜索隊に救助される。
25日になっても戻ってこないので三上少尉を隊長にして、村上一等軍医以下61名の救護隊を編制。
26日の朝10時、田茂木野を出発した。午後2時半、燧山に到着し、食事の跡を発見したが、風雪が厳しく、ここで田茂木野に引き返す。
27日の朝5時40分出発、午前11時、田茂木野から約二里行った大瀧平付近で救護隊にも続々と凍傷者が出始めた頃、雪の中に仮死状態で佇立する後藤伍長を発見。微かな声で「神成大尉」と呼ぶので付近を捜索して神成大尉も発見し介護するが蘇生せず。
救護隊からの伝令で「神成大尉と後藤伍長を発見」の報を受けた連隊本部は、他の者もやがて発見されるだろうと期待したが。救護隊長三上少尉は現地で、これ以上の捜索は危険と判断し、二里余りの険路を自ら走って連隊本部に戻り連隊長に報告。津川連隊長は少数の救護隊では無理で、連隊全部で捜索隊を編制すると決意。弘前にいる第八師団司令部参謀長林太一郎大佐及び第四旅団長友安少将に事の詳細を報告すべく、三上少尉に託し、これを伝えさせた。
翌28日、三上少尉は田茂木野に戻り、捜索本部を田茂木野に置く、兵営より仮設電話を敷設、行軍隊が露営したと思われる地点(田代)まで500m~1km間隔で逓伝哨所を18箇所設置、一逓伝哨所には50名を配置、道路確保および伝令要員と捜索員を区分するよう指揮した。
29日の夕方には各哨所も完成し、30日から捜索を開始した。30日の午後、中野中尉以下36名が頭部を西北に向けて並んで雪中に埋没しているのを発見。軍医はその死体の状況から、飢えでもなく、雪に溺れたのでもなく、風雪酷烈の為に凍死したものだと検案した。
神成大尉は死亡、山口少佐、倉石大尉、伊藤中尉は生き残ったが、山口少佐は責任を感じて拳銃自決。
山口少佐の死因については、公式発表では心臓麻痺となっている。山口少佐は元々心臓が弱かったとの証言もある。しかし、遭難についての一切の責任を負わせるために軍部が暗殺したとされる説や、ピストル自殺説もある。最近では「凍傷の指で銃の操作は不可能」と謎が多い。
軽く行きましょう。後藤伍長の像は 茶屋の駐車場に止めて行きます。
場所を確認しましょう。

銅像茶屋の場所のマップコード出しますね!
マップコード 99 149 267*71 で茶屋の場所に行けると思います。
十和田湖に向いますが このあたりで 行軍がさ迷っていたかも知れないと思うと・・・・。
ちょっと オジサンお決まりルート外してない?ねぶたが有るねぶたの里寄ってないし!八甲田ロープウェーや酸ケ湯温泉回っていないよね!
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明治35年、第八師団第五連隊(青森屯営:津川連隊長)第二大隊(大隊長:山口鋠少佐)は、雪国における軍事演習として、雪中露営、雪中戦闘、雪中山路行軍などの研究をしていた。
有事に際し本街道が封鎖された場合において、南部地方と連絡をとる方法として、田代経由の連絡網の確保も重要な課題のひとつであったことから、青森から三本木(現十和田市)に向けて十三里(約52km)の雪中行軍も実験したいと考えていた。
1月18日、神成文吉大尉の率いる一中隊が田代道の燧山(田茂木野の東南約一里)付近までの往復五里(20km)を6時間(往路4時間、復路2時間)かけて日帰りの予行行軍を成功させた。
その報告を受けて、山口大隊長は1月23~24日にかけて田代に一泊して戻る行軍を命令した。ロシアが八戸に上陸したのを三本木にて迎え打つという想定であった。
1月23日の午前6時に210名(将校10名・特務曹長4名・見習士官2名・下士卒160名・第三年度長期下士候補生34名)が第五連隊前に集合し、歩兵一中隊(中隊長:神成大尉、小隊長:伊藤中尉、大橋中尉、水野中尉、鈴木少尉、以下160名)と、特別小隊(小隊長:中野中尉、以下34名)に編制され、40名の踏雪隊を先頭に雪中行軍に出発した。
出発時には天候も穏やかで、田茂木野にて小休止をした後、燧山にて食事。行進を再開したところで天候が急変し、橇(そり)を引いていくことが困難になったため、載せてあった薪や炊事具を背負い、橇を放棄。風雪の中、行進を続行したが日没になり、そこが森林だったので露営。
露営地においても火がなかなか起こせなくて、ようやく炊事できたのは24日の午前2時だった。
24日午前4時に露営地を出発し青森に向かったが、吹雪と寒気のため進めず2里ほど青森に戻ったところで道を失う。日没になっても行進を続けたが吹雪と寒気(24日の天気は青森測候所の記録によれば、西北の強風、雪、最高気温氷点下8度、最低気温氷点下12度)のため露営。大隊長は、寒気に当った身を火で暖めては凍傷を起こすと憂い、火を焚くのを禁止し、足踏みして暖を取り、一同は眠らずに夜を明かした。この夜凍死した兵士があった。
25日午前2時に露営地を出発したが、吹雪で進まず午前10時に露営地に戻る。正午に再び露営地を出発したところ、放棄してあった橇を発見し、青森へ向かっていることを確認して日没後も行進したが、暗夜で道を失って東南(三本木方向)に向かってしまい疲労のため露営。
26日の朝、昏睡状態から目覚めた後藤房之介(宮城県)伍長は、昨夜自分と共に寝た者が一人もいないのに気づく。天気も晴れたので背丈ほどの雪の中を泳ぐようにして青森に向かう途中、神成大尉、鈴木少尉、及川伍長と出会う。飢え、寒気、疲労が重なり足が進まない。夜になったのでその場で露営。
27日未明、鈴木少尉とはぐれ、及川伍長が凍傷で倒れた。神成大尉とも別れて雪中を泳ぎ進むうち、捜索隊に救助される。
25日になっても戻ってこないので三上少尉を隊長にして、村上一等軍医以下61名の救護隊を編制。
26日の朝10時、田茂木野を出発した。午後2時半、燧山に到着し、食事の跡を発見したが、風雪が厳しく、ここで田茂木野に引き返す。
27日の朝5時40分出発、午前11時、田茂木野から約二里行った大瀧平付近で救護隊にも続々と凍傷者が出始めた頃、雪の中に仮死状態で佇立する後藤伍長を発見。微かな声で「神成大尉」と呼ぶので付近を捜索して神成大尉も発見し介護するが蘇生せず。
救護隊からの伝令で「神成大尉と後藤伍長を発見」の報を受けた連隊本部は、他の者もやがて発見されるだろうと期待したが。救護隊長三上少尉は現地で、これ以上の捜索は危険と判断し、二里余りの険路を自ら走って連隊本部に戻り連隊長に報告。津川連隊長は少数の救護隊では無理で、連隊全部で捜索隊を編制すると決意。弘前にいる第八師団司令部参謀長林太一郎大佐及び第四旅団長友安少将に事の詳細を報告すべく、三上少尉に託し、これを伝えさせた。
翌28日、三上少尉は田茂木野に戻り、捜索本部を田茂木野に置く、兵営より仮設電話を敷設、行軍隊が露営したと思われる地点(田代)まで500m~1km間隔で逓伝哨所を18箇所設置、一逓伝哨所には50名を配置、道路確保および伝令要員と捜索員を区分するよう指揮した。
29日の夕方には各哨所も完成し、30日から捜索を開始した。30日の午後、中野中尉以下36名が頭部を西北に向けて並んで雪中に埋没しているのを発見。軍医はその死体の状況から、飢えでもなく、雪に溺れたのでもなく、風雪酷烈の為に凍死したものだと検案した。
神成大尉は死亡、山口少佐、倉石大尉、伊藤中尉は生き残ったが、山口少佐は責任を感じて拳銃自決。
山口少佐の死因については、公式発表では心臓麻痺となっている。山口少佐は元々心臓が弱かったとの証言もある。しかし、遭難についての一切の責任を負わせるために軍部が暗殺したとされる説や、ピストル自殺説もある。最近では「凍傷の指で銃の操作は不可能」と謎が多い。
軽く行きましょう。後藤伍長の像は 茶屋の駐車場に止めて行きます。
場所を確認しましょう。
銅像茶屋の場所のマップコード出しますね!
マップコード 99 149 267*71 で茶屋の場所に行けると思います。
十和田湖に向いますが このあたりで 行軍がさ迷っていたかも知れないと思うと・・・・。
ちょっと オジサンお決まりルート外してない?ねぶたが有るねぶたの里寄ってないし!八甲田ロープウェーや酸ケ湯温泉回っていないよね!
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