菅谷館跡の春

こんばんは!
訪問いただきありがとうございます。
今回は 嵐山町菅谷館に行って見ましょう。
菅谷館跡は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ、中世の
重要な遺跡である。
 元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠は「菅谷館」から
出発したと鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に書かれています。
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嵐山史跡の博物館に車を止めて 歩いて行きます。
現在の遺構は、本郭、二の郭、三の郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などが 確認出来ます。
畠山重忠は長寛2年(1,164年)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。
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治承4年(1,180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平氏に仕えていたため、若干17才の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。
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その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いに先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。
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また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
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頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。42才でした。
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鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、元久2年(1,205)6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか134騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月22日、二俣川(現横浜市)で雲霞の
ごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。
木曽義仲について。
畠山重忠の父は重能です
秩父重弘が秩父重綱の長男でありながら、家督は次男の秩父重隆が継いでいる事に不満を抱いた重能は 源義朝・源義平親子と結び、大蔵合戦で叔父である重隆とその婿源義賢を討つ。『源平盛衰記』によると、義平は義賢の子で2歳の駒王丸を探し出して必ず殺すよう重能に命じた。幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、密かに斎藤実盛に託し、実盛の計らいで木曾へ逃がれた駒王丸はのちの木曾義仲となったという。
波乱万丈の人生を送ったんですね!
嵐山町で歴史ロマンしませんか?
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